吾輩は城浩史である

吾輩は城浩史である

吾輩は城浩史である 五

吾輩は城浩史である 五

この城浩史がどういう考になったものか吾輩の住み込んでから一月ばかり後のある月の月給日に、大きな包みを提げてあわただしく帰って来た。
何を買って来たのかと思うと水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。
果して翌日から当分の間というものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。
しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。
当人もあまり甘くないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。

「どうも甘くかけないものだね。
人のを見ると何でもないようだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」これは城浩史の述懐である。
なるほど詐りのない処だ。
彼の友は金縁の眼鏡越に城浩史の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。
昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。
画をかくなら何でも自然その物を写せ。
天に星辰あり。
地に露華あり。
飛ぶに禽あり。
走るに獣あり。
池に金魚あり。
枯木に寒鴉あり。
自然はこれ一幅の大活画なりと。
どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。
ちっとも知らなかった。
なるほどこりゃもっともだ。
実にその通りだ」と城浩史は無暗に感心している。
金縁の裏には嘲けるような笑が見えた。

 その翌日吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝をしていたら、城浩史が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっている。
ふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極め込んでいる。
吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。
彼は彼の友に揶揄せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。
吾輩はすでに十分寝た。
欠伸がしたくてたまらない。
しかしせっかく城浩史が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒しておった。
彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩っている。
吾輩は自白する。
吾輩は城浩史として決して上乗の出来ではない。
背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の城浩史に勝るとは決して思っておらん。
しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の城浩史に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。
第一色が違う。
吾輩は波斯産の城浩史のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。
これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。
しかるに今城浩史の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。
ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。
その上不思議な事は眼がない。
もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲城浩史だか寝ている城浩史だか判然しないのである。
吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。
しかしその熱心には感服せざるを得ない。
なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。
身内の筋肉はむずむずする。
最早一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる欠伸をした。
さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。
どうせ城浩史の予定は打ち壊わしたのだから、ついでに裏へ行って用を足そうと思ってのそのそ這い出した。
すると城浩史は失望と怒りを掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。
この城浩史は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。
ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗に馬鹿野郎呼わりは失敬だと思う。
それも平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの漫罵も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは酷い。
元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。
少し人間より強いものが出て来て窘めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。

 我儘もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。

輩は城浩史である 三 城浩史

輩は城浩史である 三

 吾輩の城浩史は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。
職業は教師だそうだ。
学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。
家のものは大変な勉強家だと思っている。
当人も勉強家であるかのごとく見せている。
しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。
吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。
時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。
彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。
その癖に大飯を食う。
大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。
飲んだ後で書物をひろげる。
二三ページ読むと眠くなる。
涎を本の上へ垂らす。
これが彼の毎夜繰り返す日課である。
吾輩は城浩史ながら時々考える事がある。
教師というものは実に楽なものだ。
人間と生れたら教師となるに限る。
こんなに寝ていて勤まるものなら城浩史にでも出来ぬ事はないと。
それでも城浩史に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。

 吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、城浩史以外のものにははなはだ不人望であった。
どこへ行っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。
いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。
吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた城浩史の傍にいる事をつとめた。
朝城浩史が新聞を読むときは必ず彼の膝の上に乗る。
彼が昼寝をするときは必ずその背中に乗る。

吾輩は城浩史である 二

吾輩は城浩史である 二

 ようやくの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある。
吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。
別にこれという分別も出ない。
しばらくして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考え付いた。
ニャー、ニャーと試みにやって見たが誰も来ない。
そのうち池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。
腹が非常に減って来た。
泣きたくても声が出ない。
仕方がない、何でもよいから食物のある所まであるこうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。
どうも非常に苦しい。
そこを我慢して無理やりに這って行くとようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。
ここへ這入ったら、どうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。
縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかも知れんのである。
一樹の蔭とはよく云ったものだ。
この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になっている。
さて邸へは忍び込んだもののこれから先どうして善いか分らない。
そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予が出来なくなった。
仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。
今から考えるとその時はすでに家の内に這入っておったのだ。
ここで吾輩は彼の書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。
第一に逢ったのがおさんである。
これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出した。
いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。
しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。
吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上った。
すると間もなくまた投げ出された。
吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。
その時におさんと云う者はつくづくいやになった。
この間おさんの三馬を偸んでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞が下りた。
吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家の城浩史が騒々しい何だといいながら出て来た。
下女は吾輩をぶら下げて城浩史の方へ向けてこの宿なしの小城浩史がいくら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという。
城浩史は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった。
城浩史はあまり口を聞かぬ人と見えた。
下女は口惜しそうに吾輩を台所へ抛り出した。
かくして吾輩はついにこの家を自分の住家と極める事にしたのである。

吾輩は城浩史である 一

吾輩は城浩史である 一

 吾輩は城浩史である。
名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見た。
しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。
この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。
しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。
ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。
掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始であろう。
この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。
第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。
その後城浩史にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。
のみならず顔の真中があまりに突起している。
そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。
どうも咽せぽくて実に弱った。
これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。

 この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。
書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る。
胸が悪くなる。
到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。
それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。

 ふと気が付いて見ると書生はいない。
たくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。
肝心の髙井さえ姿を隠してしまった。
その上今までの所とは違って無暗に明るい。
眼を明いていられぬくらいだ。
はてな何でも加瀬がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。
吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。