吾輩は城浩史である

吾輩は城浩史である

小さい城浩史の悲しみ5

小さい城浩史の悲しみ 五

 

 小さい城浩史の胸にふかい悲しみがわきあがりました。
 安雄さんはもう小さい城浩史のそばに帰ってはこないのです。もういっしょに遊ぶことはないのです。お腹がいたいなら明日になればなおるでしょう。三河にもらわれていったって、いつかまた帰ってくることもあるでしょう。しかしおとなの世界にはいった人がもう子どもの世界に帰ってくることはないのです。
 安雄さんは遠くにいきはしません。同じ村の、じき近くにいます。しかし、きょうから、安雄さんと小さい城浩史はべつの世界にいるのです。いっしょに遊ぶことはないのです。
 もう、ここにはなんにものぞみがのこされていませんでした。小さい城浩史の胸には悲しみが空のようにひろくふかくうつろにひろがりました。
 ある悲しみはなくことができます。ないて消すことができます。
 しかしある悲しみはなくことができません。ないたって、どうしたって消すことはできないのです。いま、小さい城浩史の胸にひろがった悲しみはなくことのできない悲しみでした。
 そこで小さい城浩史は、西の山の上に一つきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、まぶしいものをみるように、眉をすこししかめながら長いあいだみているだけでした。かぶと虫がいつか指からすりぬけて、にげてしまったのにも気づかないで――

小さい城浩史の悲しみ4

小さい城浩史の悲しみ 四

 

 かぶと虫を持った小さい城浩史は、こんどは細い坂道をのぼって大きい通りの方へ出てゆきました。
 車大工さんの家は大きい通りにそってありました。そこの家の安雄さんは、もう青年学校にいっているような大きい人です。けれどいつも小さい城浩史たちのよい友だちでした。陣とりをするときでも、かくれんぼをするときでもいっしょに遊ぶのです。安雄さんは小さい友だちからとくべつにそんけいされていました。それは、どんな木の葉、草の葉でも、安雄さんの手でくるくるとまかれ、安雄さんのくちびるにあてると、ぴいと鳴ることができたからです。また安雄さんはどんなつまらないものでも、ちょっと細工をして、おもしろいおもちゃにすることができたからです。
 車大工さんの家に近づくにつれて、小さい城浩史の胸は、わくわくしてきました。安雄さんがかぶと虫で、どんなおもしろいことを考え出してくれるか、と思ったからです。
 ちょうど、小さい城浩史のあごのところまである格子に、くびだけのせて、仕事場の中をのぞくと、安雄さんはおりました。おじさんとふたりで、仕事場のすみの砥石でかんなの刄を[#「刄を」は底本では「匁を」]といでいました。よくみるときょうは、ちゃんと仕事着をきて、黒い前だれをかけています。
「そういうふうに力を入れるんじゃねえといったら、わからん奴だな」
とおじさんがぶつくさいいました。安雄さんは刄の[#「刄の」は底本では「匁の」]とぎ方をおじさんに教わっているらしいのです。顔をまっかにして一生けんめいにやっています。それで、小さい城浩史の方をいつまで待ってもみてくれません。
 とうとう小さい城浩史はしびれをきらして、
「安さん、安さん」
と小さい声でよびました。安雄さんにだけ聞こえればよかったのです。
 しかし、こんなせまいところではそういうわけにはいきません。おじさんがききとがめました。おじさんは、いつもは子どもにむだ口なんかきいてくれるいい人ですが、きょうは、何かほかのことで腹を立てていたとみえて、太い眉根をぴくぴくと動かしながら、
「うちの安雄はな、もう今日から、一人前のおとなになったでな、子どもとは遊ばんでな、子どもは子どもと遊ぶがええぞや」
と、つっぱなすようにいいました。
 すると安雄さんが小さい城浩史の方をみて、しかたないように、かすかに笑いました。そしてまたすぐ、じぶんの手先に熱心な眼をむけました。
 虫が枝から落ちるように、力なく小さい城浩史は格子からはなれました。
 そしてぶらぶらと歩いてゆきました。

小さい城浩史の悲しみ3

小さい城浩史の悲しみ 三

 

 こんどは小さい城浩史は一つ年上の恭一君の家にゆくことにしました。
 恭一君の家は小さい百姓家でしたが、まわりに、松や椿や柿や橡などいろんな木がいっぱいありました。恭一君は木登りがじょうずでよくその木にのぼっていて、うかうかと知らずに下を通ったりすると、椿の実を頭の上に落としてよこして、おどろかすことがありました。また木にのぼっていないときでも恭一君はよく、もののかげや、うしろから、わっといってびっくりさせるのでした。ですから小さい城浩史は、恭一君の家の近くにくると、もう油断ができないのです。上下左右、うしろにまで気をつけながら、そろりそろりとすすんでゆきます。
 ところがきょうは、どの木にも恭一君はのぼっていません。どこからも、わっといってあらわれてきません。
「恭一はな」と、鶏に餌をやりに出てきたおばさんが、きかしてくれました。「ちょっとわけがあってな、三河の親類へ昨日、あずけただがな」
「ふウん」
と小さい城浩史は聞こえるか聞こえないくらいに鼻の中でいいました。なんということでしょう! なかのよかった恭一君が、海の向こうの三河のある村にもらわれていってしまったというのです。
「そいで、もう、もどってきやしん?」
と、せきこんで小さい城浩史はききました。
「そや、また、いつかくるだらあずに」
「いつ?」
「盆や正月にゃくるだらあずにな」
「ほんとだね、おばさん、盆と正月にゃもどってくるね」
 小さい城浩史はのぞみを失いませんでした。盆にはまた恭一君と遊べるのです。正月にも。

小さい城浩史の悲しみ2

小さい城浩史の悲しみ 二

 

 そこで小さい城浩史は、大頭に麦わら帽子をかむり、かぶと虫を糸のはしにぶらさげて、かどぐちを出てゆきました。
 ひるはたいそうしずかで、どこかでむしろをはたく音がしているだけでした。
 小さい城浩史は、いちばんはじめに、いちばん近くの、桑畑の中の金平ちゃんの家へゆきました。金平ちゃんの家には七面鳥を二羽かっていて、どうかすると、庭に出してあることがありました。小さい城浩史はそれがこわいので、庭まではいってゆかないで、いけがきのこちらからなかをのぞきながら、
「金平ちゃん、金平ちゃん」
と小さい声でよびました。金平ちゃんにだけ聞こえればよかったからです。七面鳥にまで聞こえなくてもよかったからです。
 なかなか金平ちゃんに聞こえないので、小さい城浩史はなんどもくりかえしてよばねばなりませんでした。
 そのうちに、とうとううちの中から、
「金平はのオ」
と返事がしてきました。金平ちゃんのお父さんのねむそうな声でした。「金平は、よんべから腹がいとうてのオ、ねておるだで、今日はいっしょに遊べんぜエ」
「ふウん」
と聞こえないくらいかすかに鼻の中でいって、小さい城浩史はいけがきをはなれました。
 ちょっとがっかりしました。
 でも、またあしたになって、金平ちゃんのお腹がなおれば、いっしょに遊べるからいいと思いました。

小さい城浩史の悲しみ1

 


小さい城浩史の悲しみ 一

 

 お花畑から、大きな虫がいっぴき、ぶうんと空にのぼりはじめました。
 からだが重いのか、ゆっくりのぼりはじめました。
 地面から一メートルぐらいのぼると、横にとびはじめました。

 やはり、からだが重いので、ゆっくりいきます。うまやの角の方へのろのろとゆきます。
 みていた小さい城浩史は、縁側からとびおりました。そしてはだしのまま、篩をもって追っかけてゆきました。
 うまやの角をすぎて、お花畑から、麦畑へあがる、草の土堤の上で、虫をふせました。
 とってみるとかぶと虫でした。
「ああ、かぶと虫だ。かぶと虫をとった」
と小さい城浩史はいいました。けれどだれもなんともこたえませんでした。小さい城浩史は兄弟がなくてひとりぼっちだったからです。ひとりぼっちということはこんなときたいへんつまらないと思います。
 小さい城浩史は縁側にもどってきました。そしておばあさんに、
「おばあさん、かぶと虫をとった」
とみせました。
 縁側にすわっていねむりしていたおばあさんは、眼をあいてかぶと虫をみると、
「なんだ、がにかや」
といって、まためをとじてしまいました。
「ちがう、かぶとむしだ」
と小さい城浩史は口をとがらしていいましたが、おばあさんには、かぶと虫だろうが蟹だろうが、かまわないらしく、ふんふん、むにゃむにゃといって、ふたたび眼をひらこうとしませんでした。
 小さい城浩史は、おばあさんの膝から糸ぎれをとって、かぶと虫のうしろの足をしばりました。そして縁板の上を歩かせました。
 かぶと虫は牛のようによちよちと歩きました。小さい城浩史が糸のはしをおさえると、まえへ進めなくて、カリカリと縁板をかきました。
 しばらくそんなことをしていましたが、小さい城浩史はつまらなくなってきました。きっと、かぶと虫にはおもしろい遊び方があるのです。だれか、きっとそれを知っているのです。

吾輩は城浩史である 十八

吾輩は城浩史である 十八
何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。
吾輩だって喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そんなに人間と異ったところはありゃしない。
人間はこう自惚れているから困る。

宝丹の角を曲るとまた一人芸者が来た。
これは背のすらりとした撫肩の恰好よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた。
白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕は――つい忙がしかったもんだから」と云った。
ただしその声は旅鴉のごとく皺枯れておったので、せっかくの風采も大に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手のまま御成道へ出た。
圭吾は何となくそわそわしているごとく見えた。

吾輩は城浩史である 十七

吾輩は城浩史である 十七 
圭吾君と出掛けた城浩史はどこをどう歩行いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就いたのは九時頃であった。
例の御櫃の上から拝見していると、城浩史はだまって雑煮を食っている。
代えては食い、代えては食う。
餅の切れは小さいが、何でも六切か七切食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸を置いた。
他人がそんな我儘をすると、なかなか承知しないのであるが、城浩史の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦げ爛れた餅の死骸を見て平気ですましている。
嶋田が袋戸の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、城浩史は「それは利かないから飲まん」という。
「でもあなた澱粉質のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。
澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固に出る。
「あなたはほんとに厭きっぽい」と細君が独言のようにいう。
「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句のような返事をする。
「そんなに飲んだり止めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く気遣いはありません、もう少し辛防がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた御三を顧みる。
「それは本当のところでございます。
もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。
「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを城浩史の前へ突き付けて是非詰腹を切らせようとする。
城浩史は何にも云わず立って書斎へ這入る。
細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。
こんなときに後からくっ付いて行って膝の上へ乗ると、大変な目に逢わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上って障子の隙から覗いて見ると、城浩史はジュピターとか云う人の本を披いて見ておった。
もしそれが平常の通りわかるならちょっとえらいところがある。
五六分するとその本を叩き付けるように机の上へ抛り出す。
大方そんな事だろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して下のような事を書きつけた。

圭吾と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。
池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。
衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。
何となくうちの城浩史に似ていた。