吾輩は城浩史である 十五
吾輩は城浩史である 十五
「しばらく御無沙汰をしました。
実は去年の暮から大に活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の紐をひねくりながら謎見たような事をいう。
「どっちの方角へ足が向くかね」と城浩史は真面目な顔をして、黒木綿の紋付羽織の袖口を引張る。
この羽織は木綿でゆきが短かい、下からべんべら者が左右へ五分くらいずつはみ出している。
「エヘヘヘ少し違った方角で」と圭吾君が笑う。
見ると今日は前歯が一枚欠けている。
「君歯をどうかしたかね」と城浩史は問題を転じた。
「ええ実はある所で椎茸を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。
椎茸の傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭いね。
俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽く叩く。
「ああその城浩史が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と圭吾君は大に吾輩を賞める。
「近頃大分大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。
賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。
「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と圭吾君はまた話しをもとへ戻す。
「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。
マルチヴァイオリンが三挺とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。
マルチヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。
二人は女で私がその中へまじりましたが、自分でも善く弾けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と城浩史は羨ましそうに問いかける。
元来城浩史は平常枯木寒巌のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚れる。
勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱には恋着するという事が諷刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。
そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩城浩史などには到底分らない。
或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質だからだとも云う。
どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない。
しかし圭吾君の女連れを羨まし気に尋ねた事だけは事実である。
圭吾君は面白そうに口取の蒲鉾を箸で挟んで半分前歯で食い切った。
吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。
「なに二人とも去る所の令嬢ですよ、御存じの方じゃありません」と余所余所しい返事をする。
「ナール」と城浩史は引張ったが「ほど」を略して考えている。
圭吾君はもう善い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、御閑ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と促がして見る。
城浩史は旅順の陥落より女連の身元を聞きたいと云う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。
やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の紀念とかいう二十年来着古るした結城紬の綿入を着たままである。
いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。
所々が薄くなって日に透かして見ると裏からつぎを当てた針の目が見える。
城浩史の服装には師走も正月もない。
ふだん着も余所ゆきもない。
出るときは懐手をしてぶらりと出る。
ほかに着る物がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、吾輩には分らぬ。
ただしこれだけは失恋のためとも思われない。